
宮崎 駿監督

引退会見(4)最終回
いよいよラスト

ワクワク

(注) 今日の記事もめっちゃ長い


お時間のあるときにゆっくりお読みください
よろしくお願いします
(4)
記者: 監督が引退を決定したことを
奥様にどのように伝えたのか

奥様はどういう反応

子どもたちに
「この世は生きるに値する」と
伝えたかったと言っていたが、
2013年のこの世の定義も変容したのか

宮崎:
家内には
「こういう引退の話をした」
という風に言いました。
お弁当は
「今後もよろしく」と言ったら
「ふん」と言われました (ついてるレオさん

常日頃、
「この年になって弁当を作っている人はいない」
と言われておりますので、
まことに申し訳ない

「またよろしくお願いします」と。
というのは、
もう、外食が向かない人間に
改造されてしまったんです。 (ついてるレオさん

ずっと前に
しょっちゅう行っていた
ラーメン屋に行ったら、
あまりのしょっぱさにびっくりして

また「この世は生きるに値する」については、
自分が好きなイギリスの児童文学作家
ロバート・ウェストールの作品

自分の考えなくてはいけないことが
充満していて、
この中で、こういうせりふがあるんです。
「君はこの世で生きて行くには気立てがよすぎる」

というせりふがありまして、
少しも褒めことばではなく、
「そんなことでは生きていけないぞ」

と言っているんですが、
本当に胸を打たれました。
僕が発信しているのではなく、
僕はいっぱい受け取っているのだ

多くの読み物とか昔見た映画とか、
僕が考案したものではない。
僕が繰り返し、
「生きるに値するんだ」

「ほんとかな」と思いながら
死んでいったのではないか

それを僕も受け継いでいるんだと思います。
記者: 鈴木さんに。
引退発表の場所とタイミングは、
なぜ、ベネチアで映画祭の会期中に

鈴木:
ベネチアでコンペの出品要請は直前のことでした。
実は発表のスケジュールは決めていたが、
そこに偶然ベネチアのことが入ってきた。
宮さんには外国の友人も多いじゃないですか。
そしたらベネチアで発表したら、
一度に発表できるなと考えたわけです。
記者: これまでも文学の作家の名前が出てきました。
富山県出身の堀田善衛。
先生も大変お好き

学生時代からよく読んでおられるということで
うかがっております。
今回の「風立ちぬ」の映画の中でも
「力を尽くせ」という言葉とか
「生きねば」というメッセージに
込められていると思いますが、
改めて最後の集大成の作品になった
「風立ちぬ」に、堀田善衛から
引き継いだメッセージのようなもの、
監督自身どんな思いを込めて作ったのか教えてください。
宮崎:
自分のメッセージを込めようと思って、
映画は作れないんですよね

「何か、自分がこっちでなければと思って
そっちに進んでいくことに
何か意味があるのだろうか

自分の意識で捕まえることはできないんです。
捕まえられるところに入っていくと、
大抵ろくでもないところ

自分でよく分からないところに
入って行かざるをえないんです。
そしてそれが、
最後に風呂敷を閉じなければなりませんから、映画って

最後に未完で終わってよいなら
そんなに楽なことはないんですけど。
しかも、いくら長くても2時間が限度ですから。
刻々と残りの秒数が減っていくんですよね。
それが実態でして。
せりふとして
「生きねば」とかいうのがあったから、
それはたぶん鈴木さんが
どっかから引っ張り出してきて、
ポスターに僕が書いた
「風立ちぬ」という字よりも
大きく「生きねば」

「これ鈴木さんが番を張っているな

と、僕は思ったんですけど。
そういうことになって、
僕が「生きねば」と叫んでいるように
思われているますけど、
僕は叫んでおりません。
でも、そういうことも含めて、
「設定をどういう風にやるか

「どういう風に展開していくか

鈴木さんと死にものぐるい

僕はそれを全部任せるしかありません。
というわけで、いつのまにか、
ベネチアに人がいっているという。
その前に、
「なんとか映画祭に出ませんか

「いや勘弁してください」とか、かんとか
「映画祭があるんですけどどうです

「勘弁してください」とか、
ベネチアについては
何も聞かれなかったんですけど。
そういえばそうですねと、
さっき言っていましたけど。
しらを切っていますけど。
そういうことで、
コメントを出していますよ、皆さん。
ベネチアに関して今思い出しました。
僕はリド島は好きです


リド島とカプローニの子孫、
孫がたまたま
「紅の豚」

自分のおやじの83年
やっていた会社の歴史ですね、
飛行機の図面、構造図を
描いたこんな大きな本

しかも
「日本に1冊しかない」

思うんですけど、
突然イタリアから送ってきまして、
「いるならやるぞ」

書いてあったんです。
「いるならやるぞ」と
日本語で書いていた
わけではないんですけど、
「ありがたくいただききます」

というふうに返事を書きましたけど。
それで
僕は、写真で見た変な飛行機としか
思っていなかったものの構造を
見ることが出来たんです。
ちょっと胸を打たれましてね。
技術水準はドイツやアメリカに比べると、
はるかに原始的な木を
組み合わせるとかそんなものなんですけど、
構築しようとしたものは
「ローマ人が考えたようなことをやっている、この人は」

と思ったんです。

ジャンニ・カプローニという
設計者は、
ルネッサンスの人だと思うと
非常に理解出来て、
経済的基盤の無い中で

航空会社をやっていくには、
そうとうはったりや
ホラも吹かなきゃいけない

その結果作った飛行機が
航空史の中に残っていることが分かって、
ずっと好きになったんです。
そういうことも、
今度の映画の火種になっていますが、
たまりたまったもので
出来ているものですから、
自分が抱えているテーマで
映画を作ろうと思ったことはありません。
ほとんど、僕のところに
ずっと先に送られてきた一冊の本とか。
ずいぶん前ですよね、だから。
そういう時にまかれたものが
いつのまにか材料になっていく、
ということを思います。
ついてるレオさん コメント(笑い)
「紅の豚」誕生の秘話

記者: 堀田善衛さんの文学の中に
あるものを根底においているのかと、
富山県民は思っているが、
監督にとって堀田善衛さんはどんな存在なのか、教えて下さい。
宮崎:
初期、経済が上り坂

それからどんづまりになって、
落っこって

そういう話をよく分かっているように
言っていますけど、
しょっちゅう分からなくなったんです

「紅の豚」をやる前も、
世界情勢をどう読むのか
分からなくなっている時に、
堀田さんはそんな時に、
さっと短いエッセイだけど
書いたものが届くんですよ。
それは、
「自分が、どこかに向かって進んでいるつもりなんだけど、
どこへ行っているのかよく分からなくなることがある」

とき見ると、
本当にぶれずに
堀田善衛さんという人は、
現代の歴史の中に立っていました。
見事なものでした。
それで
「自分の位置が分かる」

何度もあったんです。
本当に堀田さんがひょいと書いた
「国家はやがて無くなるから」

そういう言葉が
「そのときの自分にとって
どれだけの助けになったか」

ということを思うと、
やっぱり大恩人の1人だと、
僕は今でも思っています。
記者: 初期のころの作品は
2年か3年間隔で発表していたが、
今回は5年ということで、
年齢によるもの以外に、
創作の試行錯誤とか作品への思いとか、
何か時間がかかる要因はあったのでしょうか

宮崎:
1年間隔で作った年もあります。
最初のナウシカも、ラピュタも、
トトロも、
魔女の宅急便も。

それまで演出をやる前に
いろんな材料がたまっていまして、
「出口があったらばっと出て行く」

という状態になっていたんです。
「その後は、さあ何を作るか

そういう時代になったから、
だんだん時間がかかるように
なったんだと思います。
あとは、最初は僕は
「ルパン三世カリオストロの城」は
4か月半で作りました。

それは、
そんなに一生懸命

寝る時間をさいてでも何とかもつ

というぎりぎりまでやると、
お陰様で出来たんですが、
そのときはスタッフ全体も若くて、
それと同時に
長編アニメーションをやることは
生涯に1回あるかないかみたいな、
そういう
アニメーターたちの群れ

非常に献身的

それをずっと
要求しつづけるのは
無理なんです

年もとるし、
所帯

「私を選ぶのか



と言われる人間がどっと増えてくるという。
今度の映画で両方選んだ
堀越二郎を僕は書きましたけど、
これは面当てではありません。
そういうわけで、
どうしても時間が
かかるようになったんです。
同時に、
自分は1日
12時間机に向かっていても、
14時間机に向かっていても、

耐えられる状態では
もうなくなりましたから

実際、机に向かっている時間は
7時間が限度

あとは休んでいるとか、
おしゃべりしているとか、
飯を食っているとかね。

打合せとか、
「これをああしろ」とか
「こうしろ」とかいうことは、
僕にとって仕事じゃないんですよ。
それは余計なことで、
机の上に向かって書くことが仕事で、
その時間を何時間とれるかという。
それはこの年齢になると、
もうどうにもならなくなる
瞬間が何度もくる

「その結果何をやったか

といいますと、
鉛筆をぱっと置いたら
そのまま帰っちゃう


「片付けて寝る」とか、
「この仕事は今日でけりをつけよう」
というのは
一切あきらめたんです

やりっぱなしです。
やりっぱなしで、
放り出して帰る
というのをやりましたけど、
それでももう限界ぎりぎり

これ以上続けるのは無理だろうと。
「じゃあそれを他の人に
やらせればいいじゃないか」

ということは、
僕の仕事のやり方を
理解できない人のやり方ですから、
それは聞いてもしかたがないんです。
そういうことが出来るなら、
とっくの昔にそうしていますから。
そういうわけで、
5年かかった

その間にどういう作品をやるかというのは、
方針を決め、
スタッフを決め、
それに向かってシナリオを書く
ということをやっています。
やっていますけど、
5年かかったんです

そういうことがありますので、
この「風立ちぬ」のあと、
どういう風に生きるのかというのは、
これはまさに今の日本の問題で。

この前、青年が訪ねてきて、
「映画の最後で
カプローニと二郎が
重なっていきますけど、
その先に何が
待っているのかと思うと
本当に恐ろしい思いで見ました」

っていう、
びっくり

感想だったんですけど、
それは
この映画を
"今日の映画"として
受け止めてくれた証拠だろう
と思って、
それはそれで納得しましたが、
「そういうところに
今、僕らはいるんだ」

ということは
よく分かったと思います。
ただ、質問に答えたことになるかは
分かりませんが、そういうことです。
宮崎監督:
こんなにたくさんの方が
みえると思いませんでした。
本当に長い間、いろいろお世話になりました。
もう二度とこういうことはないと思いますので、ありがとうございます

The End

【追伸で〜す】
特集「宮崎 駿監督 引退会見」

4回にわたり
信じられないほど長い


日記を読んでくださって
感謝してます



さて、今日も
自分を楽しく生きて

上気元で顔晴りましょう (^.^)
今日はいい日だ!
9月11日
ついてるレオさん
